会長挨拶

会長

 今、国はアクティブ・ラーニングを推進している。アクティブ・ラーニングは、高等教育改革として始まった。簡単に言うと、今までの知識偏重・詰め込み式の教育から「能動的で、主体的な深い学び」へのシフトであると言われる。
 そして、今や幼児教育を含むすべての教育課程に組み込まれている。かつての「ゆとり教育」の時も、同じような話しを聞いた。歴史は繰り返す。つまり、ゆとり教育の対象が幼小中高であり、それが行き詰まると、アクティブ・ラーニングが大学ではじまり、そこから、再び下の年代へ下がってきたように見える。
 日本の教育を振り返ると系統主義教育(学習させたい内容を順序良く系統的に教える、知識偏重、詰め込み式になりがち)と経験主義教育や自由教育(子どもの興味・関心を尊重し、子どもが自ら学ぶことを支援する)が、何度も繰り返されている。
 大正デモクラシーの自由教育から軍国主義教育(系統主義教育)を経て、戦後、デューイの経験主義教育がアメリカから移植される。しかし。十年後には、系統主義、詰め込み式教育に移行してしまう。1980年からゆとり教育、その失敗がささやかれ、また、系統主義、詰め込み式教育に逆戻りした。いわゆる、脱ゆとり教育である。そして、今度は、アクティブ・ラーニングである。
 この変遷の過程では、生きる力・自ら考える力と基礎学力が鬩ぎ合っている。生きる力や自ら考える力をつける教育をすると、基礎学力が落ちる、そのため、今度は基礎学力を詰め込む教育が行われる。そうすると子どもたちは、知識を暗記して再生産する能力には長けるが、自ら考える力を失う。日本の教育を見ているとこの負のスパイラルの中に閉じ込められてしまっているように見える。
 また、現行の教育の元では、不登校、いじめなどの問題が山積している。2022年度の小中学校における不登校者数は、約30万人である、小中学校が認知したいじめの件数は、68万件である。そして、やがて、この子達の中から、大量の引きこもりが生まれてくることが予測されている。
 このような状況を見ると、ある意味で、戦後80年の公教育の限界と見ることもできる。今までのような学校らしさにしにしがみつき、改革を拒むのではなく、もっと、多様な教育を取り入れていく知恵と勇気が必要なのだと強く思う。
 また、片側では、インクルーシブ教育が求められている。今までのような、健常児と障害児という二元論ではなく、そこにいる子ども達ひとり一人が異なることを前提とする教育である。これは、障害児教育だけの話しではない。子どもは、ひとり一人みな違う、その違いに根ざした全ての子どものための教育を意味している。現行の一斉、画一教育では、これもうまくいきそうにない。もし、ひとり一人の違いを認めた教育であれば、不登校やいじめは、減少し、それぞれ異なる多様な能力が伸ばされていくことになる可能性がある。これは、まさに未来の教育である。世界の国が、解決できずに模索を続けている。これから未来にかけて解決するべき大きな課題での一つでもある。この現状から、今、教育に求められているものは、「ひとり一人の違いを捉え、それぞれにあった教育をすること、そして、主体的に学び、考えながら、基礎学力がつく教育」ということである。
 この教育へパラダイムシフトするためには、現行の教育を0ベースから見直すことが必要である。その見直しへの糸口の一つが経験主義教育や自由主義教育にある可能性がある。その中でも、個人差教育などを理念や方法論の中に持つモンテッソーリ教育であるに違いないと考えている。
 そして、公教育との間で、議論をすべきである。議論をして、学校教育において、モンテッソーリ教育を取り入れた教育形態、及びカリキュラムの改変を行う、あるいは、モンテッソーリ教育実施校も国が認可し、国民が選択できる多様な教育制度への変革が求められる。
 教育基本法の第4条に
 「すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。」とある。
 この条文は、すべての国民が平等に教育を受ける機会を持つことが保障され、その教育がどのような形であれ、その人の能力に応じて提供されるべきであるという原則を示している。したがって、モンテッソーリ教育のような特定の教育方法が直接的に認められているわけではないが、その教育方法が個々の能力に応じた教育を提供するものであれば、教育基本法の精神に反するものではないと解釈することができる。そうであれば、モンテッソーリ教育や他の教育方法を実施する学校が認可されるような柔軟な教育制度を整える余地があることを意味しているとは考えられないだろうか。
 モンテッソーリ教育は、世界スタンダードである。この教育で行われる小学校、中学校を国民が選択できないことに大きな違和感を持つのは私だけであろうか。
 この問題は、これから日本モンテッソーリ協会(学会)が取り組むべき重要課題である。
 しかしながら、議論をし、教育改革を推進すべきという前に、それでは、一体今まで、どんな議論をし、実践をしてきたのだろうかという問いが頭を持ち上げる。モンテッソーリリバイバルで、日本へモンテッソーリ教育が導入されたのが1950年代から1960年代といわれている、それ以来、約70年~80年、日本のモンテッソーリ教育実施園は何をしてきたのだろうか。今、教育が混迷を極め、「教育改革の一助にモンテッソーリ教育を!」という前に、それを問い直すことが必要なのではないだろうか。
 平成2年に、幼稚園指導要領が大改訂された。個人重視、環境の教育というのが、その当時の標語だった。当時、滋賀大学教授だった相良敦子先生が、デレビ出演して、改訂指導要領とモンテッソーリ教育との関係などを論じていた。また、指導要領改訂委員の中に、モンテッソーリ教育に精通している人が入っていたなどのことがささやかれていた。そんな時代を経て、今や、幼稚園指導要領、保育所保育指針などの中身は、全く同じではないものの、まるでモンテッソーリ教育の理念を述べているのかと錯覚するかのような状況を呈している。しかし、具体的な方法論を持たないために一般の幼稚園、保育園では旧態依然とした一斉、画一の教育をおこなっているところが多いようである。
 その点では、個性重視、環境教育の具体的な方法論があるモンテッソーリ教育実施園の方が、国が求める新しい方向へ向かっていると考えることができる。そうすると、実際、より良い実践ができているようにも見える。

  しかしながら、モンテッソーリ教育実践は、いくつもの大きな課題をかかえていることも事実である。それは、一般人から見てもおかしいというものが多々ある。例えば、「クラスが静かで驚く、子どもはもっと元気があるものであり、モンテッソーリ教育では、子どもらしさが失われているのではないか」というものがある。確かにうまくいっているモンテッソーリクラスは、静かである。それは、子ども達ひとり一人が自分の興味・関心のあるものに向かって、自ら集中して取り組んでいるからであり、結果としての静かさである。従って、元気な子ども達も、ひとり一人異なる特徴を理解され、それぞれの興味・関心がくみ取られ、環境を与えられれば、これほど静かに活動するという子どもの真実の姿を示しているのである。それは、一般人の感覚とは異なるものかもしれない。それについては、色々なところで、子どもの真実について説明をし、発信していくことが大切である。だが、クラスの静かさが形だけである場合が多く存在する。それは、保育者が力で、静かにするように抑えつけている場合である。
 この原因の一つは、クラスにいる子どもひとり一人の違い、つまり特徴を把握できていないことにある。ひとり一人の特徴とは、○先行経験の違い、○ 注意、記憶などの違い、○理解の仕方、理解に至るまでのプロセスの違い、○活動を行う早さの違い、○できるようになるまでのプロセスの違い、○取り組む回数の違い、○新しいものを受け止める時間の違い、○思考方式の違いなどもっと沢山のことがあるが、それをひとり一人について把握し、実践するということである。
 モンテッソーリ教師の養成では、教具の提示が中心になりがちであり、教具を憶え、提示法を習得することに多くの時間を使うわけであるが、それと同時に、ひとり一人の子どもを観察し、上記したような事柄をひとり一人について把握するための訓練が必要である。ここに大きな課題が存在する。モンテッソーリ教育は、保育者の力に大きく左右され、保育者を育てることに長い時間を要する。 そのため、養成コースを卒業後も、研修制度を充実していくことも今後の課題の一つである。

 また、とても大きな問題点は、教具の提示・提供についてである。教具の提示とは、その教具の使い方を子どもに伝えるためにおこなわれる。実際に、保育者が教具を使って、やり方を見せる。この教具の提示、提供については、各養成コースで習得するようにプログラムされている。 この提示・提供について、絶対に習ったとおりにしなければならない、あるいは、ある観点から考えられた提示・提供方法は絶対であると主張する人たちがいる。その一方、習った、あるいは、ある観点から考えられている提示・提供は一つの型であり、その本質を捉え、ひとり一人異なる子どもにどのように合わせたものにしていくかを考えることが大切であるという人たちがいる。ここは、多くの実践者がぶつかり、悩み、モンテッソーリ教育を離れていく原因の一つでもある。また、一般の方々からも批判を受けるところである。
 これについての標準、スタンダードが無いということも大きな問題である。これも課題の一つである。

 もう一つ重要な点は、研究者の養成である。モンテッソーリ協会(学会)の会員になっても、その後、退会してしまう研究者がおられる。また、モンテッソーリ教育の研究者が欧米に比べて少ないということもある。その原因の一つは、先に挙げた課題の一つであるモンテッソーリ小学校、中学校が認可を受けて、正規の学校として認められていないことも大きいことが推測される。 そのような意味でも、多様な学校の存在を認めてもらえるようにしていくことが大切である。
 今、日本のモンテッソーリ教育界が、抱えている数ある問題点の内、大きなものを挙げてきたが、これらについて、議論を深めていくことが今後の大きな課題である。
  日本の子ども達のために、今、危機的状況にある日本の教育に大きな波紋を投げかけ、これからの未来への新たな教育を創造することを目指したい。      

会長(理事長) 佐々木 信一郎